日窒鉱山 索道 – 鉱山軌道 日窒鉱業道伸窪通洞(歩鉄の達人)

1600年頃 秩父鉱山発見。甲斐 武田氏が金・砂金を採掘。 1765年 金採掘のため平賀源内が入山。 1910年 東京の柳瀬商工株式会社が買収。鉄鉱開発を行う。 1916年 鉱山 – 皆野間に架空索道を建設。 1937年 日窒鉱業開発株式会社が買収。3年後本格操業開始。

日窒鉱山には、雁掛トンネルを出た入り口付近と、この珪砂工場の前にトイレが設置されている。 この索道は、山の上にあるトゲノ沢上部貯鉱舎と、下部貯鉱舎とを結ぶものだったらしい。

現役石灰鉱山から出る鉱水ではなく、廃鉱設備から流れてくるものだろう。 石灰鉱山は巨大な石灰鉱脈(石灰岩の塊の山)のみ掘り進むので金属鉱山の様に重金属や硫化物を含む鉱水が出ない。 索道により運ばれてきた鉱石はここに貯蔵されていた。

鉱山 – 皆野間に 架空索道 を建設。 1937年、 日窒鉱業開発株式会社 が買収。 3年後本格操業開始。 1950年、 日窒鉱業株式会社 (現在のニッチツ)設立。 1960年代、 亜鉛、磁鉄鉱など採掘、 最盛期には年50万トン を出鉱する。 1969年、 珪砂の採掘 を開始。 1978

ここまで軌道で運び、ここから林道へ索道と考えるのが普通だが・・・。 人も通わぬ秩父の奥。昭和20年前後といえば今ほど交通は発達しておらず、それこそ秘境と言っても言い過ぎではない場所。 そんな山奥にひっそりと存在した「日窒広河原沢軌道」

滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 – 秩父鉱山 – 日窒(ニッチツ)鉱山跡 ※ 2014年2月の記録的な大雪(※1)で日窒鉱山社宅の大部分が圧壊しました、また関連する鉱山施設においても現役・廃墟問わず数棟が崩壊した事を確認しました。

これが日窒鉱山から鉱石 を運ぶ索道だったことを後で知った。 両神山の裏側にある鉱山、日窒鉱山に初めて触れた幼い日の出来事は、今も脳裏にはっ きりと焼き付いている。そんな日窒鉱山に生まれ、最盛期を鉱山の試錐(しすい)員とし

日窒鉱業三峰口貯鉱場があったと思われる場所。現在もニッチツが砕石事業を行っている。 当時ここは日窒鉱山から伸びる全長34キロもの「東洋一の大索道」の終点であり、1970年には鉱産物・木材合わせて235,200トンが三峰口駅から発送されていました。

埼玉県秩父市、中津川にある日窒鉱山です。出合から約4km進んだ山間にあり、かつて、西武の路線バスが発着していました。日窒鉱業の秩父鉱業所(現在のニッチツ秩父事業所)は、この雁掛トンネルを挟んだ両側で展開されています。素掘りの雁掛トンネル。

だが、今回初めて私は索道跡の探索を計画することとなった。 というのも、山行がでの日原のレポート直後、以前に古道を探索したことがあるというある読者さんから、現地の老翁から聞いた話として、次のような衝撃情報がもたらされた為である。

鉱山街はすでに自然に帰りつつある。 栄華を誇った秩父鉱山の今の姿をお伝えしたい。 web上ではニッチツ鉱山・日窒鉱山等と呼ばれている秩父鉱山へはこのような険路を進んでいく。 すれ違うのは石灰を満載した大型ダンプのみ。

日窒鉱業道伸窪通洞:秩父鉱山とは、埼玉県秩父市の西方、中津川上流にある鉱山。現在の運営会社は株式会社ニッチツ事業開発本部。秩父鉱山周辺は秩父帯の堆積岩であるが、石英閃緑岩マグマの貫入によって接触変成している。

【単独潜入】 鉱山集落跡. 凡そ5年前に来た鉱山集落にもう一度来てみた。 しかし壮大な荒れように開いた口が塞がらなかった。ただ呆然とするしかない状態でもあった。 大好きだった場所だけに大変残念で

場所と地質概要 Location and Geological Outline

秩父の山奥くの山奥く、八丁峠に程近い所にあるのが、ここ狩倉鉱山だ。山の麓には日窒工業の工場があり、そこまでは2本の索道で結ばれている。1本は鉱石運搬用で、もう1本は鉱山への資材運搬用である。

秩父鉱山はこの山の西の斜面に露頭その他があって坑口もあった。現在、稼働中のセメント工場はこの西斜面のふもとになる。当鉱山のかつての最大の有望鉱であった大黒鉱はこの両神山の南西方向にある南天山(1483m)の東の斜面になる。

【ニッチツ(日窒)鉱山本坑選鉱場】埼玉県秩父市中津川峡の上流にかつて大滝村という地名が存在した。(現在の秩父市大滝とは所在地が多少異なります)群馬県との県境に位置し、両神山を望むこの地区は県内でも最も深い山々に囲まれた一角、そこに旧秩父鉱山(現,ニッチツ鉱山)の遺構を残し

埼玉県秩父市、中津川にある日窒鉱山です。 出合から約4km進んだ山間にあり、かつて、西武の路線バスが発着していました。 日窒鉱業の秩父鉱業所(現在のニッチツ秩父事業所)は、この雁掛トンネルを挟んだ両側で展開されています。

日窒鉱山の事につい ては詳しく知っている人だ。今日は、日窒鉱山での暮らしについて聞くのが目的だった。 正さんが生まれたのは昭和十五年の一月だった。父は、鉱山が柳瀬商工と呼ばれていた 時代から鉱山で働いていた。

おそらく索道にてズリを引き上げたのだろう。 焙焼炉の突端に登り下部を覗く。 かなりの高さだが、 千鳥に組まれた煉瓦が繋がる。 広大なズリ山をトラバースすると、 その向こうには鉱泉の滝が見える。 これは廃坑の原風景だ。 ズリ山から見下ろす鉱山

食料や生活必需品は索道で運ばれ、また鉱山町には数軒の個人商店もあり、秩父市から臨時出張販売も来て、野菜や生鮮食品も充実。 鉱山町には大滝村立小倉沢小・中学校があり、多い時には500名弱の児

つづら折れの林道沿いに架空索道の痕跡。 日窒鉱業 : 巨大な選鉱所の廃墟。不気味な鉱員社宅多数。 高層マンション群の廃墟。鉱山施設は無し。

鉱山 名から鉱山 毛無山に架空索道の桁が点在。大事故有り。 日窒鉱業 : 専用軌道跡にホッパー。巨大な近代選鉱所。

蛇足ですが、鉱山の索道は三峰口(納宮)に向けた架設が最初ではなく、その18年も前の1919(大正8)年に鉱山から小鹿野と吉田を経由して秩父鉄道の皆野駅まで下る全長34kmの「東洋一の大索道」が架設されていたことはご存知でしょうか?

1600年頃、秩父鉱山発見。甲斐武田氏が金・砂金を採掘。1950年日窒鉱業株式会社(現在のニッチツ)設立。1969年珪砂の採掘を開始。1978年金属採掘を中止。 ①日窒鉱業道伸窪通洞事務所? ①日窒鉱業道伸窪通洞事務所?基礎があるので索道のモーターの基礎

2月3日、小鹿野の品川正さんのところに、日窒鉱山の話を聞きに行った。 正さんは日窒鉱山で生まれて育ち、日窒鉱山に就職したという経歴をもつ。鉱山で育ったことから、昔の話もしっかり覚えていて、話してくれた。 驚いたのは、カメラ好きだった正さんが撮った昔の写真がたくさん残っ

1916年 鉱山 – 皆野間に架空索道を建設。 1937年 日窒鉱業開発株式会社が買収。3年後本格操業開始。 1950年 日窒鉱業株式会社(現在のニッチツ)設立。 1960年代 亜鉛、磁鉄鉱など採掘、最盛期には年50万トンを出鉱する。 1969年 珪砂の採掘を開始。

「学生最後の夏休み、行きたかったところへは行っておこう」 ということで、ずっと行ってみたかった秩父鉱山へ。 この鉱山は、2005年あたりだったかな? なぜか小学生の時点で廃墟サイトを訪れていたときに気になり始めて ずっと訪れてみたかった場所です。

柵原鉱山(やなはらこうざん)(英語;Yamhara Pyrite Mine は、岡山県 久米郡 美咲町(旧柵原町)にあった、黄鉄鉱を中心とした硫化鉄鉱を主に産出した鉱山である。 岩手県の松尾鉱山とともに日本を代表する硫化鉄鉱の鉱山であった。

国: 日本

八雲町には、かつて鉱山と鉱山街が栄えていた。その興亡史を紹介するとともに、現在の様子を紹介する。 鉱山の記録で最も古いものには、1674(延宝2)年に遊楽部鉱山で銀・鉛・金を産出したとある。このとき金を精選するために使ったと伝えられる石臼がある。

TM7によると、この日窒広河原沢軌道は中津川の支流、神流川の広河原沢という沢の奥にあったらしく、日窒工業開発(株)の鉱山で使う坑木と炭の運搬を目的としていたとされる。

索道を操作・管理する小屋の内部。 最後に可笑しな写真を2枚ご紹介して本稿を結ぶことにする。 この写真は前編でご案内した居住・文化区で撮られたものであるが、鉱山病院の撮影中、急にシャッターが開きっぱなしになり、撮影が不能になった。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 – 秩父鉱山の用語解説 – 埼玉県西部,秩父市西部にある金属鉱山。慶長年間 (1596~1615) に発見されたと伝えられる。 1937年以来日窒鉱業が経営し,鉄,硫化鉄,銅,亜鉛,マンガンなどが産出された。鉱石は浮遊選鉱され,川崎その他の製鉄,精錬所へ送ら

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秩父太平洋セメント株式会社 三輪鉱山 鉱山概要 鉱山所在地 埼玉県秩父市上影森607 TEL 0494-22-0428 FAX 0494-22-5212 沿 革 操業開始 大正14年8月 累積生産量 22,330万t 生産能力

[ ニッチツの寮(2012年):鉱山村の最北部 ] ・ 中津川三峰口停車場線の起点である中津川は、秩父市大滝(旧・大滝村)の中でも群馬県境に最も近い地域で、現在『ニッチツ(旧・日窒鉱業)』という会社が結晶質石灰石と珪砂を採掘・生産しています。

1916年 鉱山 – 皆野間に架空索道を建設。 1937年 日窒鉱業開発株式会社が買収。3年後本格操業開始。 1950年 日窒鉱業株式会社(現在のニッチツ)設立。 1960年代 亜鉛、磁鉄鉱など採掘、最盛期には年50万トンを出鉱する。 1969年 珪砂の採掘を開始。

鉱山索道の写真も何枚か。 手段の一つである鉄砲流しの再現装置、もう15年以上前かな・・・当時、広河原奥の日窒坑木軌道の聞き取り調査をしていた時に、その人が博物館の再現展示されてる鉄砲流しの制作指導をしたと聞きましたが、それをやっと見

11月10日、今日は日窒鉱山にあった彦久保商店の取材をしてきた。 日窒鉱山には商店が三軒あった。そのうちの一つ、彦久保商店を開設していた、彦久保清さん(71歳)を訪ねて、当時の様子を聞いた。 彦久保商店は、本坑ではなく大黒(だいこく)坑の前にあった。

「トワイライトゾ~ン manual9」によると、ここにかつて木造の大掛かりなホッパビンがあったという。なんでも、ここからさらに山奥の日窒鉱山で採取された鉄鉱石を索道で運んで来て、この場所で貨車に積み替えていたらしい。

【18年8月5日探索・19年7月15日公開】まずは上の地図を見て頂きたい。これは「日本近代の架空索道(1985・コロナ社)の索道地図」を引用した。かつて秩父の日窒鉱山から小鹿野町を経由して秩父鉄道の終点、三峰口駅までの鉱山索道があった。

Jun 19, 2019 · Search query Search Twitter. Saved searches. Remove; In this conversation

1600年頃 秩父鉱山発見。甲斐 武田氏が金・砂金を採掘。 1765年 金採掘のため平賀源内が入山。 1910年 東京の柳瀬商工株式会社が買収。鉄鉱開発を行う。 1916年 鉱山 – 皆野間に架空索道を建設。 1937年 日窒鉱業開発株式会社が買収。3年後本格操業開始。

鴻之舞鉱山は、元山鉱・倶知安鉱を中心に、金・銀・銅などを産出したが、中でも金の埋蔵量は佐渡金山・菱刈金山に次ぐ日本で第三位の産金の実績であり、1940年(昭和15年)には年間金2.5トン、銀46トンを産出。 1955年(昭和30年)には金年間2.98トンの最高産出量を記録した。

高山村側の索道終端地点は、いったいどのあたりだったのでしょうか? 当時の面影を伝えるものが残っていると興味深いのですけどね〜。 鉱山集落については、こちらもご覧ください。 『旅の風景・06・「奥秩父の日窒鉱業と鉱山集落」』

藁の布団が敷かれている日窒鉱山診療所の一部屋。 春から夏にかけては、磨り硝子に蔦が掛かり、その隙間から優しい光が差し込みます。 撮影時は3月頃、すっかりと蔦が枯れてしまっている様子。寒々しい窓際も絵になります。 写真2枚目: 未開封の薬瓶。

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秩父鉱山は、時勢に合わせて採掘対象を変えるこ とができるという強みがありました。 昭和12 年、日窒鉱業株式会社が秩父鉱山の経 営に乗り出し、近代的な設備を充実させて、鉄・ 銅・鉛・亜鉛などの多種類の鉱石を出荷するよう になります。

1916年 鉱山 – 皆野間に架空索道を建設。 1937年 日窒鉱業開発株式会社が買収。3年後本格操業開始。 1950年 日窒鉱業株式会社(現在のニッチツ)設立。 1960年代 亜鉛、磁鉄鉱など採掘、最盛期には年50万トンを出鉱する。 1969年 珪砂の採掘を開始。

くもとり号と索道跡. このロープウェーが出来る前の旧ロープウェーの山頂駅も残っているといわれているが、 山中をさまよってみたが結局場所が分からずじまいであった。 国道140号バイパスに戻り、中津川方面へ曲がる。

1916年 鉱山 – 皆野間に架空索道を建設。 1937年 日窒鉱業開発株式会社が買収。3年後本格操業開始。 1950年 日窒鉱業株式会社(現在のニッチツ)設立。 1960年代 亜鉛、磁鉄鉱など採掘、最盛期には年50万トンを出鉱する。 1969年 珪砂の採掘を開始。

小神流川一帯の鉱山を次々と買収した日窒鉱業は、道路を開削し、送電線、索道の整備を行った[11]。最初に手に入れた六助抗は道路すらない山奥だったので、直ちに六助沢左岸の硬い岩盤を切り開いて通路を開削、輸送路を確立した。

鉱山に無くてはならないもの・・・索道。 トラック輸送に変わった今となってはケーブルも外されオブジェ化している。 R140脇にあったダッジチャージャー(格好いい!)の看板。

Mar 04, 2019 · 注意喚起のために作られただろう都市伝説には「山中の鉱山で、冬季に撤収する際、最後になった人が楽をしようと索道(空中にケーブルを渡して鉱石などを運ぶ設備)のバケットに乗って帰ろうとしたら、人が乗っているのを知らずに下で電源を切ってしまい、空中で停止。

それによると鉱石産出の干俣上信鉱山より鉱石を索道によって芦生田まで(約八粁)搬出し、芦生田より電気鉄道によって長野原町大字長野原まで約九粁の間を輸送し、折から敷設中の長野原線に連絡輸送しようというものであった。

考え得る唯一の答えは、金山鉱山である。金山鉱山の採掘は遠く慶長年間に甲斐武田氏により金の採掘に始まったと云われている。そして、昭和12年に日窒工業がここで亜鉛・鉛の本格的採掘を始めてからこの鉱山は急速に発展した。

Haikei Nostalgia -華咲枯美の廃墟寫眞-

鉱山経営が順調になるにつれて問題となったのは鉱石の輸送問題である。それまで吉井川の川舟である高瀬舟に頼っていた鉱石の輸送では間に合わなくなって、柵原から索道によって矢田まで鉱石を輸送し、矢田から瀬戸内海の鉱石積み出し港である片上港

昭和9年当社がこの地方一体の鉱業開発に着眼し、当地方一帯の鉱区を当社の手に納め、三和鉱山、紀州鉱山を創業し、昭和12年先ず三和鉱山にパイロットミルとして小機械選鉱場を建設し、更に隣接する白石鉱山を始め付近諸鉱区を併合し、三和、紀州両鉱山を合併の合理経営を図ると共に、両

索道を操作・管理する小屋の内部。 最後に可笑しな写真を2枚ご紹介して本稿を結ぶことにする。 この写真は前編でご案内した居住・文化区で撮られたものであるが、 鉱山病院の撮影中、急にシャッターが開きっぱなしになり、撮影が不能 になった。

かつては、駅西側の奥に日窒鉱業のホッパー設備があった。16km先の秩父鉱山より索道を使い鉄鉱石や硫化鉱を運び、おもに浜川崎駅まで発送していた 。現在も一部を引き上げ線として使用している。

柵原鉱山 柵原鉱山の概要 ナビゲーションに移動検索に移動柵原鉱山所在地柵原鉱山所在地岡山県久米郡美咲町国 日本座標34°57′7.2″n 134°3′43.2″e / 34.952000°n 1